昭和54年1月12日 朝の御理解
明渡 孝
御理解第50節『とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ』
地を肥やすということ。心を肥やすということ。まあ同じ道理のもので、だんだん信心を頂いておりますと、確かに心が豊かになってまいります。心が、いうなら大きゅうなってまいります。それがひとりでに物ができるようになるというところまで豊かになり、大きくならなければ、だから値打ちはないのです。ただ信心しておる。
だんだんおかげを頂いて、信心のなかった時代よりも、少しはましだといったようなことでは、ひとりでに物ができるようになるまでの豊かさと、または大きさと、地が肥え心が肥えるということは、どういうことであろうかと。だからまず、焦点をそこに置かなきゃいけんと思うですね。
結局、「これでもない、あれでもない。いや、これはまだ信心が足りんからだ」という心の中に、あれこれと、いうなら迷いも起こる。または、あの手この手いろいろと信心してみる。そして、おかげを頂いて、もう信心はこれに極まった。心を豊かにするということ。ね。大きくなるということは、もうこれに極まったというものができなければダメです。徹しきりません。
肥やしたり、また貧しゅうしたりしたんじゃ堂々回りです。はあ、しっかり肥やしよるかと思いよると、ストッと反対の方になってしまうようなことでは、ひとりでに物ができん。問題は、極めに極めて、もうこの手、これ以外にはないというほどしのものをみなさんが把握して、もうこれで行く以外にはないと極まったところから一心発起もできるし、それにまた徹することもできるのです。ね。
その一心発起、そしてそれに徹するということから、私は、なされなければひとりでに物ができるようなことにはなっちゃこない。「いつかは肥えるじゃろう」と。「いつかは大きゅうなるじゃろう」と。そして一生堂々回りでたいしたおかげにも触れることができないで終わる、といったようなことでは寂しいです。ね。せっかく信心しておって。ね。
ただお伺いだけ、ただお取次ぎを頂いてお願いをするだけ。ね。なるほどおかげは頂く。ね。ただお礼参拝をした。お願い参りをした。というような信心が、だから続いとるからというて、ほんとにひとりでに物ができるというような、いうならばことにはなってこないと。
ほんとに肥えるということは、「もうこれに極まった」という、いわば信心をまず頂いて、そしてその、極まった信心に徹し抜かせて頂かなければ、いうなら、いつまでもいつまでもひとりでに物ができるということにはなりません。去年はひとりでに物ができたけれども、明くる年は、もう荒らしたから、もうまたできんといったようなことになるでしょうが。ね。
だから、徹しれれる。しかもその徹するということが、なら合楽で言われる、もう楽しゅうして有り難うして。ね。しかも愉快に、このリズムを外したら、ほんとに生きてはいかれない。信心なしには生きてはいかれない、というほどしのものにだんだんなってこなければね、一生ウダチが上がらんですよ。ね。
この世で、いうならばあれにも恵まれ、これにも恵まれして、「まあほんとあの人は、あの人こそ極楽じゃろう」と。また自分も、「自分のような幸せな者はおるまい」というようなおかげを頂く人は、もう絶対反対に地獄に行くです。間違いないです。これは私は、夕べ頂いた。この事を。
この世でね、いうならば、楽をして、もう自分が極楽じゃろうちゅう思うごたったら、もうあの世行ったら、絶対地獄に行くです。まあ、分かりやすく地獄・極楽でいうならばですよ。ね。
ところがね、ひとりでに物ができるようなおかげを頂いて、ほんとにこれが極楽じゃろうか、「もうほんとに私のような幸せな者があるじゃろうか」と思うような信心から生まれてくるそれであったら、もうそのまま、その心がそのまま極楽につながるです。ね。
ですから、今日の御理解は、そんなにたいへんな、もうところを今日は頂き、聞いて頂いてるんです。信心によってどうでもひとりでに物ができるようなものというところまで、信心を高めていっとらなければ、この世では、そりゃ、お取次ぎ頂き頂き、おかげ頂いていっても、あの世までもつながるようなおかげにならない。
そして、んなら、信心なしにこの世で極楽っち言われとる人は、もう絶対地獄に行くです。何故かと言うと、この人には、魂ば磨き来とるとに、魂ば磨かんのに、金にも恵まれとる、物にも恵まれとるっちゅう。器量にも恵まれとるちござるとば、もうそれこそ、もうあの世(この世)でお前はあんまり楽してきたけんで、今度は地獄の方にということになってくるわけです。必ずですこれは。
魂の助かりが、助かり得ない。信心なしに今楽をしておる人達は。そんなにたいへんなことです、信心とは。ほんとに信心とは、この世には魂を極めに来ている。その、なら極める手立てをね、合楽では、それこそ噛んで含めるように、しかも、もうこれに極まったと言うて、私が掻き口説くようにみなさんに聞いて頂いて、そのことにならなきゃダメだよと。ね。
昨日のにんにくの話なんか、もう神様が掻き口説くように言うてござるとです。
昨日は、岡山の方から団体参拝がありました。二十数名の方達が毎月熱心に参って来るんです。それで、もう二十何名の人達が、残っておるあの福引きを引くとがなかったから、男半分、女半分といったような感じで参っておられましたから、男の代表女の代表で引いてもらったんです。そしたら、男の方はね、あの「遠方のところを参ってくるが・・・」という御理解でしたよ。ね。それから、女の人が、代表が引いたのが「天地日月の心」でしたよ。
(?)先生が、あちらへ、この頃ご本部の帰りに寄ってその、この教典感話を忘れておった。そしてその教典感話を開らかして頂いて「有り難い本だ」と。こうやって開かして頂いて、そこんところに、裏に先生が書いておる「天地日月の心」と。この裏に書いておる。それをしきりにね、「はあ、なるほど、合楽の信心は天地日月の心に極まっておるな」と。「もうこれを合楽理念では説き明かしてあるんだな」それを言い、思いしながら参ってきたら「天地日月の心」を引いた。
もう、ほんとにみなの者がおそれいってしもうてね、そこでその、せっかく遠方のところを参ってくるのであるから、参ってくる度んに、いよいよ合楽理念をね、で昨日は、「どうでんあなた達もひとつにんにくを食べ習わにゃできないよ」とね。にんにくの臭いにむせるようなことじゃできん。ほんとににんにくを、のいうなら合楽の信心を頂いて、銘々の教会でその実を現していく。
始めの間は、「あれが合楽に行かれてな」というてその、まあ、だからこっそり参ってくる人達もあるくらいなんです。ね。けれどもその、合楽、そのにんにくの臭いをあなた方の頂いておる教会に広めていかなきゃいけない。また、周辺の人達に広めていかなきゃならん。もう必ず、血になり肉になる。
このにんにくの臭いを世界中に広めていくということが、「和賀心時代を世界にというのは、そのことだよ」と言うて、お話をしよりましたら、若先生が「親先生、昨日のあのにんにくということは、たいへんなことですよ」と言うんですよ。「何がや」と私が言いましたら、その字引を引いてみたっち。
そしたらね、こげん書いてあった。にんにく(大蒜)とは。みなさんも知っておられますでしょうけれど。大きく自然が示すという字を二つ、二つ並べて書いてあるです。もう合楽の御理解のね、もう私が掻き口説くように、ね、ここだけは頂いとかなきゃいけないよ。これだけは守らなきゃいけないよと。掻き口説く、例えば言っておる感じがするでしょうが。自然。それに示すという字が二つ書いてある。
宗教とは、天地が示すことを教えるのが宗教だと、ここではみなさん頂いとるわけでしょう。その天地がです、掻き口説くように、示せ示せと、しかも大きく。ね。天地に、いうならば、これが響き渡るように、和賀心時代が世界に、いよいよにんにくの臭いでうずまってしまうような、ひとつおかげを頂かなきゃ、「もうこれに極まったよ」と昨日は話してあるわけです。にんにくを食べ習うことだと。ね。
漬物にでも、お汁にでも、ね、炒め物にでもにんにくを入れなければ食べられん。また、そういうようにおいしいものであると同時に、味わいのあるものである。その臭いも始めの間は、なかなかむせるような感じですけれども、ね、あの臭いなしには食欲が起こらんと。ほんと、あのにんにくの臭いというのはね、食欲が出るです。もう始めから頭から好かん。もう合楽はいけん。もう合楽はつまらん。つまらんじゃない、合楽は好かんと、もう頭ごなしに言うたり、思うとる人は、だからなかなか頂けん。
「ちっとは臭いばってん、あれだけおかげ頂きよるとじゃけん」ちょっとまあ感じる。見てみろうか聞いてみろうか。そして行じてみろうかということになって、いうならば、ね、合楽の信心は忘れなくなり、抜けられなくなる。そういう信心が、いよいよ信心の力とも徳ともなっていく。
大きな信心とは、ね、あれもおかげ、これもおかげであると、その範囲が広くなるのが大きな信心だということを今朝から頂いた。ね。「あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると、真の信者じゃ」と仰るが、真の信者であると同時にです、なるほど、これならばおかげだろう。例えばみなさんの、一家なら一家の上のことをです、いうならば、あなたが生まれた時から、この方のことをずっと思うてみて、「もうこげな人と結婚したけんで、こげん苦労せんならん」「こげな家に嫁ってきたから、私は難儀だ」と言うのじゃなくてね、もうその一切が生きてくるわけ。信心さして頂きよると。
この人と結婚したおかげで、この人の家にきたおかげで、これはまあ、女の立場から言うとですたい。もうこれはたとえです。まだ、だから一事が万事一切がどういう忌まわしいこと、煩わしいこと、悲しいこと苦しいこと、それはあったにしても、そのそれが全部おかげであると分かった時にいうならば、それだけあなたの信心が大きく豊かになったことになるんです。ね。
私達がだんだんおかげを頂くはずだと思うです。ね。生まれて六十日目に火傷をした。ね。死ぬか生きるかのとこ何遍も通った。ね。そして、その過去の一切が「あのことのおかげで、このことのおかげで」と、私が、私の過去の一切をおかげとして生かしておるから、合楽の信心はそれだけ大きくなった。いや、まだ気が付かないところに、おかげと気付かなきゃならんとこがたくさんあるでしょう。それをおかげと気付かしてもろうて、今まで何とも思ってなかった、いや、反対に恨みがましいものを持っておったという時にです、それが反対にお礼が言えれるようになったら、それだけまた信心が大きくなるわけ。ね。
大きく豊かになるためには、そういう信心と、昨日あたりから頂いておりますように、にんにくというのは、大きく自然が、しかも二つ並べて示すとあるように、ね、掻き口説くように合楽で言われておる、合楽理念の行者とならせて頂いて、おかげを頂いて、いうならば「天の心」「天の真」ね。「地の心」であり、いうならば「天地日月の心」であり、それこそ「土の心」であり、「水の心」であるという、もうこれに極まった。これに徹していく以外にないんだと。言うて思うてそれを徹していくところから、必ずひとりでに物ができるようなおかげになってくると私は思うですね。どうぞ。
にんにく(大蒜)という字がこげなふうに書くとは私は知らんじゃった。大という字をかいてね、草冠、そして示すという字を二つ書いてある。で、昨日若先生これ見てからびっくり。もう昨日の御理解はだからたいへんな御理解だったですね。と言うわけなんです。神様がもうそれこそひとりひとりに掻き口説くように、ね、それこそ合楽の匂いがぷんぷんするような信心生活に入ってくれよ。そしてその匂いを人にも、いうならば「匂い掛け」天理教の言葉じゃないけれどもね。「匂い掛けをしていかなきゃいけないよ」と。「示現活動に参画しなければいけないよ」と言うのが昨日の御理解じゃった。
ためにはまず、自分自身がそれを頂いて徹しなきゃダメだということね。どうぞ。